ロックンロール紙芝居電子版

Rock 'n' Rollの「'n'」になりたい

(1991年/2019年)のシューゲイザー

去年の夏に八王子の実家に帰省したとき、母とこんな話をした。

「今年も音楽のやつに行ってきたん?」
「うん。行ってきたよ。今年は・・・・・・そうそう目玉がおもしろいバンドだったんだ。シューゲイザーっていう妙なジャンルの音楽なんだけど、何がすごいかって音量がすごく大きくて、演奏が始まるまえにそのバンドが耳栓を配ってるんだ」
「え・・・・・・、耳大丈夫なん?」
「つぶれたりとかではなかったけど、すごいよズボンとかびりびり震える」
「やー怖い」
「ロックの一種なんだけどこうやって手を上げてウォー! みたいな感じじゃなくて、テンポもゆっくりで海鳴りを超でかくしたみたいな音楽で、みんな半目で体をゆらゆらさせながら聴くんだ。ある種のトリップというか陶酔を呼び込むんだよね」

息子の説明を聞き、呆れた母が訊いてくる。
「・・・・・・いろんな音楽があんねんな。それなんてひとたちなん?」
My Bloody Valentineっていうんだけど・・・・・・」

いろいろな音楽を内包していま現在も転がり続けているロックミュージックのジャンルの一つに、シューゲイザーというものがある。wikipediaによる音楽的特徴の説明はこうだ。

フィードバック・ノイズやエフェクターなどを複雑に用いた深いディストーションをかけたギターサウンド、ミニマルなリフの繰り返し、ポップで甘いメロディーを際立たせた浮遊感のあるサウンド、囁くように歌い上げるボーカルなどがシューゲイザーの一般的特徴として挙げられる

wikipedia完璧、これ以上云うことはないという感じ。聴くまえにこれを読んでもたぶんぴんとこないんだけど、聴いたあとだとこれこれ、これで充分。となるんだけど、どうでしょうか。

 

僕がはじめて聴いたシューゲイザーのことはわりとはっきり覚えていて、それはAIRの代表曲のひとつである「Hair do」という曲だった。正確には知識が無くてそれをシューゲイザーだと当時は認識できていなかったのだけど、ライブの終わり際のいいところでいつも演奏するその曲のことをとても不思議な曲だと思っていた。
どんな曲かというと、まさに深い歪みと、執拗にリフレインしてどこか気の触れた感のある短いフレーズ、そしてあえて単調にしたリズムの上にのっかっている甘いメロディのぼやけたボーカル(文章がデジャブってるな)。壮大で(なにせ9分35秒もあるのだ)混沌としたとてもいい曲なんだけど、このアレンジはなんなんだろう・・・・・・と当時は考えていた。

そこから数年経ち友だちからMy Bloody Valentineの『Loveless』を借りて聴いた瞬間、僕は"そういうことかよ!"と憤ったり笑ったりする。「Hair do」がこのバンドのサウンドを下敷きにつくられたことが一瞬でわかってしまったからだ。ここまで潔いなぞり方もなかなかないし、とてもいいなぞり方だと思う。

余談と弁護だけど、AIRこと車谷浩司というひとは、ほんとうに既存の音楽のトレースというか吸収しての表現に長けた器用なミュージシャンだ。オルタナシューゲイザーもヘヴィロックもジャズも取り込んで、どれも「ごっこ」にはとどまらない高いレベルでじぶんのものにしてしまう、できてしまう(しかもアコギ1本の弾き語りもすごくいいんだ)。逆に、そのまるでカメレオンのように柔軟に音楽の色を変えられることこそが、このひとのオリジナリティになっている。

 

という流れでマイブラに行き着いて、シューゲイザーというものを知ってからはディスクガイドをもとに他にもRide、SlowdiveSwervedriver、Chapterhouse、The Verve等々を聴いてみた。聴いてみて思った。それはMy bloody Valentineはジャンルの代表、筆頭とされていながら、実は異端児なんじゃないの? ということだ。もちろんシューゲイザーのすべてはおろか、表層でさえさらいきっていないのだけど、そう思った。
特に『Loveless』はいわゆる轟音具合が過剰なのだ。前述の他のバンドはまだ聴きやすさがあるし、各楽器の芯がわかるし、歌やメロディを立たせたりしているが、マイブラはそこが極端に振り切れているように思う。極端だから代表するようになったのだろうか? たしかに特徴がわかりやすい。特徴的すぎるといってもいい。ただ・・・・・・これを入門書にするのはひとを選んでしまいそうな気もちょっとする(なにせ過剰で大袈裟で極端で刺激的だから・・・・・・)。

ただ、やっぱりマイブラシューゲイザーは聴いていて特に気持ちがいい。歌はあるんだけどそれは主役じゃなくて、ギターも実は主役じゃなくて、歌も含めたすべての楽器が溶け合ってひとつのうねりをつくっている様に感じるからだ。それは快感の体験といってもいいかもしれない。芸術性、なんて云ってしまうと大袈裟かもしれないけれど、描く音楽的理想の高さ、あるいは深さを感じてちょっと身震いしてしまう。ケヴィン・シールズというひとの頭のなかはいったいどうなっているんだろうか。何を思い描き、何を想像しているのだろうか。なんてふと思ってしまう。

 

シューゲイザーの特性である深い残響、あるいは残響の衝突で生じる不協和音についてはある気づきを、2016年のホステスクラブオールナイターというイベントにて得たことがある。
僕はその夜、Deerhunter、Dinosaur Jr.、Saveges、Templesのライブをたて続けに観て(とても贅沢な夜だった)、どのバンドにもシューゲイザー的な残響やノイズをまき散らす瞬間があることに気がついた。
Deerhuunterを除けばどのバンドもシューゲイザーの文脈で語られることはないように思うけど、それでも表現のオプションのひとつとして残響やノイズを操っている。
これについては仮説大爆発なんだけど、たぶんイギリスやアメリカでは、ロックバンドの表現技法のひとつとしての残響やノイズが身近だったんじゃないかなと思う。かたや日本だと深い残響やノイズは"音楽に不要な余計で汚いもの"とまず捉えられていて、進んで手にする技としては挙げられにくかったのではないだろうか。
表現の認知度の違いというか、例えば日本の高校生が文化祭にてそういう表現を駆使ししていたら(いるだろうけど)、うるさい、音楽じゃないと正されてしまいそうな気配を感じる。
それはどうしてもロックとの(物理的な/精神的な)距離が関係しているのではないかなと勝手に睨んでいる。ロックだってもちろんその距離の差を感じることがままあるが、そのなかでの枝葉の枝葉で徒花の感もあるシューゲイザーのマナーまではなかなか手が届かない。並べるなという感じだけど、僕がマイブラをはじめて聴いたのも20代中盤のときで、遅かったし(並べるな)。

 

最後に、冒頭で挙げた2018年のソニックマニアで観たMy Bloody Valentineのライブについて少しふれたい。
演奏が、ほんとうにすごかったんだけど、予想していたシューゲイザーぶりの炸裂のほかにも、バンドがかなりアグレッシブというか、リズム隊が攻撃的に獰猛にまえに出てきていて驚いたことが記憶に強く残っている。それは音源では感じられなかったことで、聞いてないぞ! という嬉しい悲鳴とともに、すごく痺れたしとても格好よかった。マイブラは実験室じゃなくてバンドだったんだな、みたいな、変なことを、真夜中の幕張メッセにて轟音に疲れた頭で思った。

 

最後に最後に、この文章のタイトルはもちろん村上春樹『1972年のピンボール』のパロディなんだけど、汎用性が高いためシューゲイザー史総括みたいな意味にとらえられる可能性がなきにしもあらず(悲哀のネタばらしだ)。そんな壮大な意図は微塵もございませんゆえ、なにとぞなにとぞ。